昭和54年10月23日 月次祭
えー、只今、神様にお礼を申させてもらい、えー、ただ今から月次祭の、んー、ご教話を頂きます事を(届けさして?)貰いましたら、今日は果物が、あの、柿だけだ、柿だけで一台が盛ってございましたですね。
あの、柿が一台お三方にお供えされてあるところを頂いたんです。柿という字は、こう書いて、木へんに市という字が書いてありますね。木へんに市。(その市?)は心というから、まぁ一心だという事だと。
一心という事を、が、あ、色んな場合に申されますけれども、んー、一心を出せば直ぐにおかげを受けられるというような一心。へ、だから、やはりただ普通で言う一心とは違うんですよ。その中には、それこそ水水しい、生き生きとした心が、あー、いっぱいならなければいけん。私はもう金光様一本だ、だから自分は一心だというわけにはいかんのです。
今日は、朝から、何か体が大変こう、きつくて沢山お水を頂きます。えー、ここへ、えー、その時間になりましたから、久富さん呼びに来て頂いたんですけども、まぁとにかく体がきつい。
まぁ、結構な修行させて頂いて有り難うございます、もうきついと言うたらいけんし、きついと言うたら死神が集まると神様言われるのだから、もうきついとは言わんぞとこう思っておるけれども、やはりそれがね、あのー、きついと言わんだけでは我力になってしまいそうですね。こ、一心を、そういう時に心の中に水水しい、結構な修行させて頂いて有り難いと言うような内容が生まれてこなきゃならんのだけれども、なかなかあ、やっぱきつい。
ご結界つかせて頂きました、たら丁度、んー、こちらの臼杵の、んー、「ひらさん」がお届けされました。その中に、ね、もう先生ここでお話を頂いておりますと、改まなければならない事がいっぱいおございますと。
だから、まぁ一つずつ改まって行きなさいよと、まぁ申しました事でしたけれども、えー、今まで、大祓い信行をさせて頂いておりましたのが、えー、夜大祓い10巻を(そあげ?)させて頂いておりましたけれども、明日からは、ね、えー、朝その10巻をお供えさせて頂きたいと思いますと、こう言われる。
4時半に起きれば良いですか?と言われる時に、(笑い)私の体に何かこう、電気がかかったような、ジーンとするような物を感じましたです。私はね、一心を立てるという一心を神様にも通うが、人にも通うと思うですね、おかげで何かこう、ヒョーンと元気が出て来たような気がいたしました。
今まできつかったのが、きついというようなものがこう、まぁ全身の血が入れ替わると言うか、そういう感じなんです。ね、明日からね、夜に上げておった大祓い10巻を朝の内にあげたいと思います。ね、6時半には、まぁお弁当の用意やらなんやらですから、まぁそれまでに、10巻をあげるためには、4時半に起きならければなりません、だから明日から2時半に起きて、朝の内に10巻の大祓い信心させて頂きたいと思うという、その心が、私は元気な心だと思うんです。ね、その決心する事なんです。
今日は、研修の時に、話た事でしたけれども、今朝から、えー、「にさか?」先生が、んー、(やけ見えてから?)最近お餅付きの夢ばかりを見ます。
今朝からも、そのお餅の付いとるお夢を頂いたが、先生どういうような事でしょうかと言うて、お伺いなさる。まぁ、お餅を付くと言う事は、結局心もちを作る事でしょう。ね、それも神様に通う、言うならば心持ちを作る事でしょう。
はー、こんな汚い心では神様には通わん、このくらい一心と思うておるけども、こんな一心では神様にはかおい、おうまいと、あれこれと心の中に改まる事も、整理する事も心の上におかげを頂いて、ね、やはり心持ち、おかげの頂ける心持ちを創る事なんだ、ね、それにはね、それこそ臼杵の志賀さんじゃないんですけれども、臼杵の志賀がいるんです。
臼杵とは、臼、杵と書いてあるですね。臼と杵と書いて、あの臼杵とある。志賀、志、心が喜ぶと書い、志賀と書いてある。ね、まず、臼杵の心を、自分の心の中に頂かなければならない。そして自分の、言うならば心持ちを、ね、つきあげていかなければならない。
と言う事は、陰陽という事でもあれば、または天地と言う事にもなるのです。だからね、本当の意味においての一心とか、ね、おく、そこにはおかげが受けられるとか、というその一心とは、私共が天の心地の心を行じながら、ね、おかげを頂いて行くならば、限りなく美しゅうならしてもらおう。ね、いわる、いよいよ地の心、無条件にならせてもらおう、そして黙って治めよう。
限りないう、天の美しい麗しの心と言われるその心が、ね、はずんで来る、潔い心。ね、その潔い心を作らせて頂こうと、日々天の心地の心を、私共の信心心行としておかげを頂いて行く。
私は今度、おー、東京の支部大祭に参りましてから、んー、帰りにね、久保山「みどり?」さんの所に参りました。前の(お店のところに一品?)、今度マンションを替えました、りっぱなマンションです。えー、大きな、大きなというが、まぁ8畳くらいの部屋が八つあります。
(およ ?)ですから親子三人くらいですから、もうお店まで一、二分のところ、そこで、まぁ落ち着かせて頂きまして、えー、御神前も本当きれいに、い、個人、まぁ私とお神様をお祭りしております。ですから、御祈念をさせて頂きましたら、その横に、額に私の書いたものが入れてあるんです。そんなもの書いてやった覚えないけども、何時かのお参りの時に、えー、やっぱ書いて上げたんでしょう。
その中に、えー、こう言う事が書いてある。え、「小さい事に拘らずとか、大きな事に驚かず・・・」とある。ね、ん。「・・・天地のように生きたい」と最後に書いてあります。ね、皆さん、あのお道での信心、言うなら合楽でこの頃天の心、地の心と言う事が説かれますから、ね、そのあらゆる角度から天地の心を頂くのですから、私共がまずはその天地のような心で生きたい。天地の言うならば、ように生きたい。天地のように生きたい。この願いをまず(まざなければ?)いけないって事が分かります。
そこには、小さいことに拘らんですむ、大きな事が起こって来てもどっこいと受け止める心が養われてくるのです。小さい事に拘らず、大きな事にも驚かず、ね、天地のように生きたいと言う願いをまずは立てなければならない。
ね、ですから私共お道、合楽で信心の稽古をさせて頂いておる人は、何時もこの事が焦点である。ね。
今度の、東京支部の、おー、大祭がもう思いもかけない、えっつ、んー、沢山なお参りでした。それが、あのー、あちらの方達は、まぁ電話とか手紙でお届けをするくらいですから、まぁ皆がおかげ頂いております。もう助からんはずのガン人が人が助かった。あー、ここの井上さんの、姪御さんになる人の子供さんなんかは、もうおそらくこれが直ると思われない、もう一生言うなら、(ふぐ?)のような足がこう、んー、足らないんです、こう広がったままで。
というまぁ、大変なあのお病気、病気でしたが、あのー、親子4人ぞえでお参りして来ておりました。もうこの子でございます、せんしんずっと日常足らずおかげを頂いたのは、と言うて、まぁ、はおこげん頂いておるって言う事は聞いとったばってん、こげんおかげ頂いとるとは思わなかったと言うて、言わして頂くような事でしたが、そういうおかげを受けておる人達が、合楽から先生が見える、親先生が来るというので、やっぱり難儀の人達の周囲におりますから、いっぺんお話を聞いて見なさい、一辺お取次ぎをお願いなさったらどうですか、と言うようなそのお道に(きえ?)し来とりますから、もうあのに、えー、ふた、(ふたわ?)の二階を、二部屋それに、いー、丁度畳四枚の、おー、両方からの押し入れがあります、その押入れを取り除いて、こういたしましたから、は、二八の十六畳に(蓮杖?)ですから、まぁ20畳という事になるでしょうか、もうそれこそどうかもう、あもはしごの、おー、ど、段々に戻ると立ってお祭りを拝むというような、あー、おかげを頂いております。
私はその朝、私は前の先日から行っておりましたから、ホテルで宿とって下さっとりました。朝方私がお夢頂いたのが、若先生が、んー、どうでもあいしん力のおかげを頂かなければダメですなー、と私に言うておるところを頂いた。
あいしん力なんていう言葉聞いた事もない、字引引いたっちゃありゃしません。そこで私は「愛の心、力」と頂いた。愛心力。
私は愛の心がある、真がある。親切な心がある、と言うても、ね、世間には、ね、仏様のような人じゃ、神様のような人じゃと言うても、次々難儀な事が起こってこうがと、教祖様が仰っておられる。
信心しておかげを受けるのは別物と言われる、言うならば心なんです。どんなに仏様のような、(びひ?)の心が強かっても、キリストが言う愛の心が強かっても、ね、それが強かった、あっただけでは何にもならない。
信心の教えによってきたえにもきたえられて、それが言うなら力になっていかなければならないと言うお知らせでした。だからそういう事に基づいて、まぁお話を聞いて頂いたんですけれどもね、ですからお互いの信心の上にもです、ね、どうしても、おー、いるのは力である。
今日朝の、おー、御理解に、えー、信心して次、難儀な事が起こってくる。又は難儀な事があるが、ね、ん、それは丁度井戸ざらえをするようなものです。ね、8分9分でやめれば、何時までたっても水は濁っておるようなもんじゃと。
井戸ざらえが出来た時に、それこそこんこんときれいなし、お水を頂く事が出来るんだと。という、あの、御理解に基づいて頂きましたが、その中にも最後に、いわゆる「元気な心で信心せよ」と仰る。
元気な心でないと、ね、くみ上げても汲み上げても、濁った水が、しか出らんのですから、もう退屈して止めたいようになる。信心しておる、おるのにどうしてというような心が起こって来るような事にさえなりかねない。ね、だから、いわゆる元気な心が必要だという事になるのです。
はい、その元気な心も、だた朝参りをす、しておるというようなだけではなくて、その内容が皆さんに聞いて頂きましたように、先ずは私が本気で、ね、大祓い信行でも夜お供えさせて頂いておったのを、朝4時半に起きれば、朝に、そのおかげが受けられるから、ね、そうさせてもらおうと心に決める心は、もうすでに元気な心です。言うならイキイキとした心なのです。
いよいよ間違えのない、生き生きとした心と言うのは、それこそ臼杵ねの信心であります。ね、そしてもちを、心もちを作り上げて行く。ね、餅を付くようにして生まれて来るところの心が生き生きとした心、いやこの心ならば、まぁ手の平をかやすようなおかげにもなって行くと、こういう。
今朝の御理解を今日研修させてもらう時に、末永先生がこういう発表をしておりました。今日の御理解を頂いておったら、もう結局は親先生が過去数十年間歩いてこられた道、先生がそれを、おー、行として受けてこられたその事を私共が、あー、分からせてもらい、マスターさせてもらい、そしてああいう時には親先生はここんところをこう言う風にして通られたという事を、もう話じゃないもうこれは私の、親先生の体験を頂くが一番だ、一番早分かりがするんだ、という事を言っております。
ね、そして、私がもうそれこそ最近責めぬかれておった自分、もうそれこそ借金の、んー、断りを、おー、もう、ふそうであったら行けない。もう10日に一辺くらいは参ります、それが、あー、あてがあって断りに行くのじゃないんですから、結局嘘をいう。ね、だからもう向こうに(かつら?)まぁ思うてみると福岡から椛目までも、おー、私が、はっ、さっ、支払いにいかんから、断りにいかんからと言うて、まだ集金に来なさるような事もなかろうけれども、神様はもう度々に断りに行けと仰る。
もう修行と思うて行くけれども、もうとにかくその方の前に行ったら、なかなか入りこまれん。もう6回、7回、10回にもなりますとね、もうそりゃぁまた嘘を言うに、言うに来たか、というような、あーもう、ん、言われるんです。
そ、すいませんけどもまぁ10日待って下さいち。まぁ10日待って下さいと、断りにいかにゃいかんの、もうこげん辛い事はない。ても借金の断りくらい1回2回なら良いけれども、それをね、本当に(いかる?)こんなにやっぱり、確かに四百四病の病よりか貧より辛いものはない、といわれるほどに辛いです。
けれども神様の、言うなら行けと言われるところへ何かが、お心があるんだとね、ある時の、おー、断りにまいっております時に、皆さんが何時も聞いて下さる、んー、(新田の小川という桶屋さんが?)ね、あのお相撲の話をして下さった。
言うならば、あのー、修行に入った相撲が、ああのー、土俵の上でもうそれこそ、もうはいも立ちも出来らんごつなっておるとを又引き揚げといてから、こうやって突き飛ばしたり、叩いたりしてから、あ、まぁ修行を付けてやる。稽古を付けてやる。
もう例えもうこりゃ肉親のもんどんだんが見られることじゃないばいて言う話を聞かせて頂いた時に、私の心の中に頂いたものがです、ね、こりゃ大坪総一郎でなかにゃ出けん事であるばいと思うた。
もう末は、それこそ大関か横綱かにでも劣り立てて下さろうと思うからこそ、こんなに鍛えて下さるんだと思うです。ね、そしたら不思議ですね、こりゃもう不思議に生き生きとした元気な心が湧いて来た。もうそれこそ金の断りじゃない、銀行に金預けに行くごたる意気揚揚とした心が生まれてきたんです本当に。
もうそれこそ、表まで、い、あの、んー、松枝さんていうのが、ぐりーと1回家中が回られるごつなっておりますもん、小さか道が。だから、玄関の方へ行ってからこう何回も何回も前勢い付けて飛び込むようにして入って、その、おー、断りに行きよったぐらいです。
もうそれこそ意気揚揚として参りましたら、もうそれっきりでした。もう大坪さん、もう断りに来てもらわんでんよかっち、もうあんたがある時払ろうてくれんの、と言うような、手の平を返すようないわゆるおかげである。そういう心が、水水しい、生き生きとした元気な心の内容にはそういう言うならば難儀をむかいうつ、といったような心がいるんだという事。
ね、こういう元気な心であるならばです、必ず言うなら手の平を返すようにおかげが受けられる。私がじゅ、10何回も断りにいった時の、行く心持ちというのは、もうそれこそこんな実ない事があろうかと言う心であったけれども、ね、神様の願いが掛けられておる。神様のきたえがある、もう例えば来とうても、こんなやつんつ来とうてもダメだと、神様がおご示すなら、こんなにきたいなさるはずはないと。末はやっぱり、大関にでも横綱にでも取り立ててやろうという願いがあるからこそ、神様が鍛えて下さるんだと思うたら、もうそれこそ苦労の中にどっから湧いてくるか分からん元気な心が湧いてきた。
そういう例は幾らもあります。私の過去においては。ね、もう本当に足をぼうにして、福博の町を行商して回るけれども、それこそ、おー、一本のタオル一つ売れなかった。それで帰ってもうへとへとんなってご神前に額づかせて頂くと、湧いてくるのは有難いて言う事だった。有り難さだけだった。(感動)
もう今日も結構な修行させて頂いて有り難いというのであった。ね、ですから、私ともがね、そこんところを、言うなら今日の柿の字じゃないけれども、ね、一心というのは、ね、そういう心が備わってくる内容にあるというところの言うならば一心でなからなければいけない。ね、私はそういう時分に、思わせて頂くのに今のように天の心とか地の心とか、成り行きを尊ぶとか大切にする、っといったような、全然そういう言葉もない時分でしたけれども、考えて見るとその時分から、成り行きを神様が大切にさせて下さったという感じがします。
分からんなりにも、はー、あれが天の心であったなー、あれが地の心であったな、と思うのです。その中から生まれて来るもの、ね、そこには言うならば臼杵に(あさわらなければ?)良いものは生まれてこない。
ね、心持ちは生まれてこない。しかもその心持ちが、一心の心。しかもその一心とは手の平を返すようなおかげに繋がるほどしの一心。ね、はー、そういう一心を出したらもうお金は払わんですんだと、いうような意味じゃないですよね。もうある時で良いと言うてもらえるような、言わばおかげであった。
まぁ結局はそれから、あー、又数年後に、えー、秋永先生と2人で支払いに参りました。そしたらもう大変喜んで下さってね、ん、とにかくお宅を、神様が大変、まぁはっこうしよんなさるそうなと、まぁあの家内と喜びよると。言うて喜んで下さった。そして、もうそげんとばお父さんどうして頂くのと、お神様のお金ばどうして頂くかと言うて、秋永先生が用意して下さったお金を持って行ったんですけれども、もうとうとう受け取って下さいませんでした。ね、けれどもそういうおかげに繋がってくるのです。
ね、井戸は聖水になるまでです。ね、そういう私は信心の中から、言うならば愛力心が、愛の心にも、言うならば力が出来る。馬鹿のような素直な心と言うても、世の中には本当に馬鹿のように、本当に素直な人があります。けれどもその素直な心がね、雲の上までも登る道があるような、その道を登れるような素直というのは、素直な心が力を受けなければ出来ません。
素直でさいあれば良いという事ではありません。その素直な人が信心によって力を受けるから、合楽、じひが、真がと、と言うてもそれが力を受けた時に初めて言うならば全ての事がままになって行くおかげに繋がってくるんです。
東京で私が感じました、ね、言うならば一つお互いがね、合楽にご縁を頂くのですから、小さい事にこだわらんですむ信心を頂きたいと、大きい事にでも、言うならばどっこいと受け止めれる、言うなら驚かんですむ信心を頂きたい。それには神様が、言うなら信じる心、いうなら確信がいよいよ確信となっていく信心の手立てが必要である。
その信心の手立ては、言うならば天地のように生きたいといういよいよギリギリのところにそういう願いを立て、又そういう願いを持たなければならない。
天の心地の心。ね、それを私共が臼杵と今日は聞いて頂いた。そういう天の心地の心が出来る時に、その陰陽一つになって合体する時に、良いものが生まれて来る。ね、そういう心持ちを一つ作りたいですね。
私は、んー、先ほど、んー、志賀さんのお届けを聞いて、私が一生懸命のもの、ね、いうなら生き生きとした心のもの、そういう心は必ず人を動かす、私の心に響いて来た。私の言うならば心のどこからか、言うならば、ね、きついと思う心が、こう、なくなって行くようなものに響いて来る、生き生きとした心が。はい。
そりゃもう朝にすりゃよかばってん、ね、例えば四時半から起きらんならんなら、なかなかちょいとでけんと、言うのじゃなくて、それをね、もうあえて言うならば四時半から起きれば、後の弁当を作るにも間に合うから、朝の中に10巻、同じ事なんですけれども、朝のその弾みという物はそういう力、私の心に響いてくるような力、それが神様に響かないはずがない。
今日はあっちこっちから、大変珍しい方達が参って来ました中に、えー、戸畑からっと言うて2人夫婦で参って見えた方がありました。ここの安武先生、えー、と先生がおります、お、友達が東京に、「吉川さん?」と言う方がおります。その方がもう、お祭りがすんで私の部屋にやって来て、あー、あんたもお参りしとったなー、と言うて私の前に座った途端に泣き出したんですよ。
何かよっぽど悲しい事があるじゃろうか、ものを言われんとじゃん、そしてから泣き泣き(頭きってから?)又出て行ったんです。どうした事じゃろうかと思いよったら、あのー、あの方はお祭りを頂く以前にずーと泣きよんなさった。今日あのー、お祭りを頂いてですね、えっつ、何は、何と申しますかね。
あの、東京のこの支部大祭には、日本一という人が2人お参りしとった。あのね、えー、木村屋というパン屋があります、こりゃもう日本一です。そこの奥さんとお嬢さんがお参りをしておりました。それから有田の「源右衛門?」が、あー、特別参拝者で玉串上げました。
これ、山本富士子が来ると言いよったばってん、時間が遅うなったごたる風ですもんね、あれが来た、あれがち言うちゃ、(笑い)あれが来とんならほんなこて3人揃うとじゃけん。(笑い)そういうお祭りでした。ん、それがその今よ、お、き、いや、その、その方も、とにかく皆その、別に悲しいお話でもない、そのだったと思うんですけれども、その皆が涙を流しながらお祭りを頂いて、お話を又頂いておるんです。
「吉川さん?」もそうだった。もう今日日田の、方がその方のご両親であった。お祭りがすんでから今帰ったというてもう大変感激して、電話をかけてきましたと。合楽にはこういう先生がおられるから、ぜひ一遍一時でも早う一つお参りをして親先生にお会いをしてくれという電話であった。
だから、今日は夫婦でこうして参って来てね。一心とか、言うならばその中身が感動であると言う事、元気な心ね、それこそ夜やりよった大祓いを、朝に1時間、1時間半早う起きて、一つおかげを頂こうといったような、どこか信心にですね工夫を凝らさなければ一心も生まれてこないし、臼杵の事にもなってこない。
天の心とは地の心とはと、あ、私共が、あー、その、おー、お、心をいよいよ自分の心に頂きたいという願い、天地のように生きたい。どうぞこの事を繰り返し思う、えて下さい。小さい事にこだわらず、大きな事があっても驚かず、ね、天地のように生きたい。その天地のように生きたいという事が大変な事であろう、難しい事であろうというのではなくて、合楽ではそれを誰でも行じようと思えば行じられるように、手立てが説いてあるのが合楽理念でございます。どうぞ。